大東亜戦争の末期、1943年のころ、当時の海軍省は海軍軍医を獲得する目的で我が大学にも9メートルのカッターを寄贈し、海洋班なるクラブが創られた。筆者はこの班に入部したがまもなく終戦を迎え、世の中は飢餓状態に陥った。ようやく世の中が落ち着き始めた昭和23年、筆者3回生の時、数名の同志を糾合してヨット部を創設した。第1号艇は、琵琶湖に沈んでいた上記のカッターを浮上させ山下造船でガフセールの帆船に仕立てて帆走した。続いて「飛天」という名の12フィートディンギーを購入し、琵琶湖周航なども試みた。
その後、続々部員が増え、当時はやりのダンスパーティーを繰り返し行って資金を稼ぎ、3号艇、4号艇と購入していった。こうなるとどうしても艇庫が必要となり、昭和26年から湖畔の土地借用の交渉、艇庫建設を大学に要請し昭和28年、木造トタン屋根、12坪の艇庫が葦の茂った尾花川湖畔に実現した。4艇収納可能であった。その後、昭和36年、滋賀県営の総合艇庫がここに建つことになり、我々は永代無償で新艇庫にはいることを条件立ち退き、昭和38年、新艇庫に入り、更に平成7年改築し現在の艇庫に収まったのである。発足時永代無償の条件であったのが現在高い家賃に悩まされている。
レースの戦績は、昭和30年ごろからめきめきと上昇し、西医体では常に優勝或いは準優勝、インカレの1部と2部を行き来していた。その後盛衰はあったが、最近部員も大いに増加し、隆盛となっているのは頼もしい限りである。
人事に関しては、ヨット部長は創部初期には、ヨット部に理解のあった解剖学の山田博教授にお願いし、次いで筆者が引き継ぎ、筆者の定年後は勝目助教授、次いで現在の酒井教授となっている。OB会長は初期には第3内科の増田正典教授、次いで瀧野教授、そして平成元年から筆者が引き継いでいる。
以上がヨット部の創部以来64年の大まかな歴史である。